今回ご紹介するのは明治のトップ金工、加納夏雄の目貫、( 第27回重要刀装具 )です。(1828~1898 幕末から明治時代に活躍した金工)
寿老人と蓑亀がモチーフのこの目貫は直径約1.5センチ。
1円玉の直径が2センチであることと比較するとこの作品の大きさが良くわかると思います。
江戸時代の明かり事情と眼鏡事情
この作品が作られたのは江戸時代末期。
時代背景を考えてみると1871年、夏雄は40台前半、横浜で初めてガス局が設置されました。
その翌年ガス灯が点灯されます。
このころの眼鏡事情ですが、久能山東照宮には徳川家康公の眼鏡が残っており、眼鏡は権力者の手元にはあったことがうかがえます。
福岡市博物館所蔵の書物には、筑前・福岡藩の領主、黒田長政が刀鍛冶であり、金工の埋忠明寿に眼鏡を注文したと残されています。
このことから慶長元和期に一部の階級の手元には眼鏡が存在したことがわかります。
実際、この時代辺りから細密な作品が増え、19世紀初期には名工・土屋安親が眼鏡をかけた肖像が存在しています。
( 江戸時代の本『鑚工二十八気象「安親」』所載 )
そう考えると、江戸中期ごろの金工の手元には拡大鏡や眼鏡の類があった、けれども明かりの事情はまだ貧弱であったと思われます。
( 第27回重要小道具 (重要刀装具)横からみた寿老人図目貫
幅約2センチに夏雄と流麗な文字で刻まれています。このように目貫の際に銘を切ることは難しく、数少ない。
夏雄の卓抜した技術が見て取れる。 )
このような現代と比べると制作環境が恵まれていたとはいいがたい時代に、これだけ精緻な作品を作り続けた夏雄。
世界中のコレクターが夏雄をこぞってたたえるのは日本人特有の繊細な表現に加え、拡大してもなお狂いのないデザイン、洗練された構図、直径1.5センチほどの作品にもある立体感。
そのどれをとっても超絶技巧としか言いようがありません。
夏雄の技術の高さを如実に物語っているといえるでしょう。
加納夏雄の生涯
加納夏雄は1828年(文政11年)山城国愛宕郡、現在の京都の米穀商を営んでいた伏見氏のもとに生まれます。7歳の時、刀剣商の可能治助の養子となり、12歳で金工としての初歩技術を習い始めます。彫の技術を学ぶかたわら、朝は漢文の素読、夜は絵画の手ほどきを受けていました夏雄の師・中島来章が夏雄に画家になることを勧めるほどでした。
夏雄の牡丹の写生です。
この時代、工芸作家の多くが下絵師と呼ばれる下絵専門の職人に原画を依頼することが慣例でした。
そんな時代に夏雄は自ら絵筆を持ち、その下絵に基づいた鐔を制作していました。それは夏雄が刀装具制作に並々ならぬ情熱を持っていたことの現れでしょう。
この写生を見ると、毎日牡丹のその時々の変化を日付とともに丹念に写生していたことがわかります。夏雄の写生帳にはほかにも多くの動植物のスケッチが残されており、そのどれもが写実的で細部にいたるまで緻密に描かれています。夏雄の勤勉さ実直な人柄がよくわかりますね。
加納夏雄の菊花図金具
今回ご紹介の重要刀装具、寿老人図目貫以外の作品、菊花図金具をあわせてご覧ください。
https://samuraigallery.com/cms/2020/06/19/kanonatsuo_kiku/
参考文献
- ”超絶技巧”の源流 刀装具 内藤直子
- 『夏雄大鑑』