第25回重要刀装具 蓮花図小柄 無銘:平田道仁
こちらの蓮華図小柄は、桃山芸術の豪華美を七宝の技を以て刀装具に表した京都出身の工人平田道仁によるものです。平田道仁は通称を彦四郎といい京都に住んでいましたが、豊臣時代にすでに彫金工兼七宝工として活躍していたと思われます。
慶長16年(1611)に徳川家康に召し抱えられ、十人扶持(※)を支給されて駿府に移住し、五年後の元和二年(1616)、二代将軍秀忠に従い江戸の呉服町に邸宅を与えられました。
その後嫡男就一とともに江戸に移って活躍し、以後代々七宝工として幕末まで徳川幕府に仕えており、その技術を門外不出とし守っていきました。
※十人扶持といえば一日五升の割で玄米が与えられるということです。
その当時男性一人に付き一日5合、女性は3合が食料標準として考えられていたので、男性10人分の食料が俸禄として与えられるということは高給取りだったと推定されます。
平田家七宝
平田の七宝技術は朝鮮からの渡来人より学んだと伝えられていますが、正確なところは定かではありません。日本では6世紀飛鳥・奈良時代の遺跡からの出土品に七宝金具の出土例があることから、七宝そのものは意外に古くから存在していることが知られています。
この七宝は西洋ではエナメルと呼ばれ、紀元前ギリシャやエジプトで始まり、19世紀末アールヌーボー全盛期には工芸品としてだけではなく宝飾品としても使われてきました。
日本においては飛鳥・奈良時代以降七宝はしばらく影を潜め、近世平田彦四郎の出現によりようやく華やかな七宝技法が開花することになります。
平田の七宝はそれまでの不透明な釉薬を用いた泥七宝と違い透明感のある色彩豊かな七宝です。この七宝技術は時代の嗜好に合致して、伏見城や聚楽第の建築金具などに用いられ、新鮮な工芸美として大いに注目されました。
蓮は泥池の水面から起立し、その泥にまみれることなく鮮やかにそして清く美しく花を咲かせます。また葉に撥水性があって水玉を葉にとどめないため常にきれいな状態を保っています。このことから、純粋さや善性の象徴とされ、仏教の教えに通ずるとされ「妙法蓮華経」の名の由来となったといわれています。
平田作品の題材は富嶽図が最も多くみられこの蓮華図は数は多くありません。この小柄は水に浮かぶ蓮華の花を金銭尾七宝象嵌で巧みに表して華麗で見事な一品と言えるでしょう。
法量・竪長さ | 長さ9.6㌢幅1.3㌢ |
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法量・横長さ | (大)8.2㌢、(小)7.5㌢ |
品質 形状 | 赤銅、磨地、金線七宝象嵌 |
時 代 | 桃山 |